昭和42年02月13日 朝の御理解



 大徳を受けられた先生方の信心を、間近かに見たり聞いたりしておる人達。特に三代金光様のご信心というものを、本部の何時も間近かにおられる先生方は、金光様はこうであられる、こうあらせられたと、という様な事を良く知っております。ま知っておられる訳です。先日も甘木の初代の安武先生のお弟子さんである方が見えられました。甘木の初代の一番いうなら油の乗り切っておられると言ったような時代に。
 修行生の先生でしたが、もうそれこそ私共、今迄知らなかった事迄、聞かせてもらいました。様々な、こうであられた、ああであられたという事を知っとられました。けども私は思うんですけども、いかに金光様が、こうでおありになられたとか、いくら初代が、先代がこうであられたとかいう事が、いくら分かっておったって、分かっておったんでは何もならんと思う。
 こうあられたならばこうあられた事を、私も、出来んなりにそれを見習わして頂いたり、頂かしてもろうたというところに、値打ちがあるのですよね。此処でもそうです。私共は、たいした信心も出来んのですけれども、家族の者でも、又、私の周囲に何時も奉仕して下さる方達でも、親先生はこうだ、ああだと。それこそ梳き櫛でで梳いた様に、私の事を知っておられてもです。
 知っておいただけでは、私が頂いとるようなおかげは受けられんです。あぁいうおかげがどういう信心から生まれてくるのであろう。あぁこれだな、親先生がおかげ受けれるのはここだとここだと、ほんなら、ここだというところをです、私は、分かったら、それを自分のものにしようという精進がなされなかったら、私は値打ちはないと思う。そうでしょうが、どんなに素晴らしいものの前にあったって。
 それが素晴らしいと分かってるだけでは何にもならん。馬鹿のひとつ覚えでも良い、親先生のこれだけは、金光様のこれだけはと、という様にそれを自分のものにさして頂こうとする精進。そういう努力がなされなかったら何にもならんのですから。そこで私共が、こう大徳を、いわゆる、受けられた先生方やらの話を頂きます。又金光様のご信心振りといったものは、月々ではありますけれども。
 お参りさして頂くたんべんに、それを実際、身をもって感じて参りました。金光様は素晴らしいお方だと。なるほど生神様だと、まあ拝みもしましたし、頂いても参りました。けどもそりゃ本当に何ひとつ真似のでける様な事はないのでございますけれども、やはり、せめて、せめてとこういう心でそれを真似ようとするところにです。はあ金光様がお感じになられたお心というのは。
 こういう様な状態やら物ではなかったであろうかという風に、自分もおぼろげながらでも、それが分らしてもらう事が出来る。それはできませんでした。私が例えば三代金光様のもうそれこそ朝の四時から、夕のお引けの四時、そしてお引けになるのは五時頃でございましたが、その間、その神様ご結界での、ご神勤振りというものを実際目のあたりに見せて頂いとりますからですね。
 ですからせめてせめてというのが、私共にある。例えていうなら私がこうして、御用さして頂く様になって、五時なら五時のご祈念をさして頂きます。金光様は四時にご神前にお着座でございます。いわゆる、その一時間、時間は違いますけれどもです、そのかわり一秒だって狂いがないのです、金光様は。どんな正確無比の時計があっても、金光様のおあり方ぐらいに間違いないものはない。
 それで私共は、五時のご祈念ですけれども、五時に五時五分に出たんではもう値打ちはない。私はこういう風に思うんです。もう五時じゃないもん。これだけは、それこそ、いうなら命がけです、命がけとはそういう事だと思うです。生命がけとは、生命をいつも張っておるというのではなて、一生懸命の事だということだと思うです。これだけは、私は一生懸命、これこそ一秒だって切らしちゃならない、こう思うております。
 例えていうならば、ここでのご神勤振りというものがです、金光様のご神勤振りというものは、私共実際目の当たりに見せて頂いとりますから。その朝の五時から昼の十二時迄はです、金光様のそれこそ真似方でも奉仕させてもらわねばならんと思いますから。用心して、水気もおろ取る様にさせて頂いて、それこそお手洗いにでも立たないという、これは私は、これだけは行じさせて頂いております。
 いうなら七時間です、この七時間だけはもうどんな事があっても金光様の真似をさせてもらわんならんと、こう思わして頂いておる。それこそ真似事ですけれども、真似をさして頂いとる内にです、なるほど、金光様が始めの間は、辛うて辛いうて泣きましたと仰られた、あの気持ちが良う分かるです。そして親様が仰る事だから、泣く泣くそれこそ辛抱さして頂いとりましたら、欲しい物もなくなり、思う事もなくなり、只、有難うて有難うてと仰られた気持ちが、この頃少し分かる気がいたします。
 なるほど私共も、それこそ泣く泣く辛抱さして頂いとりましたら、この頃はですね、此処を十二時に久富先生が交代に見えるのが惜しい気がいたします。立ちたくないです、本当に。ですから丁度十二時頃参ってきた人があると、特に念入れてからご理解でもさして頂きたい。ゆっくり此処にゆっくりしてもらいたいという様な気がするんです。他の先生方は、親先生が下がりなさるとじゃけん、早うお届けばせんのち言うてから、言われますけれども、実をいうたら私は反対です。
 そういう風にです、例えば本当に真似事にでもさせて頂くというところに、私はおかげの頂けれる道があるのだと思うですね。はぁとても金光様の真似は出来ん、親先生のしよんなさる様な事は出来ん、というのではなくてです。それをいかに金光様、こうであったあぁであった親先生はこうだという事をです、いくら身近かにおって、それを私は知っておる所では何にもならんと私は思う。それが自分のものになっていかなけれは。
 昨日、勿論、寒くもございましたけれども、一日、あそこでストーブ炊いてるんですけども、いっこうお広前が暖まらんのですねぇ。それであすこにもう、皆んな夕方でした、学生会の女子の方達が、あのストーブを囲んで、色々お話しとりますから、私もあすこにかたってからお話さしてもらいよりました。けど、今日はどうして、今日は寒かけん、暖もらんこつね、というてから私は云いよったんですよ。
 そしたら、何のじゃろかいあなた、そこのガラスが一枚割れとるとじゃん。それですから、あぁた、あすこが、うっぽんぽんですから、暖るはずがないです。たった一尺真四角位なガラスが一枚割れておりますと、いかに此処に熱をかけても、ストーブを炊いても暖もらんです。いかに朝参りが十年続いとりますというても、こげな修行さしてもらいよりますというても。
 いうならガラス一枚が割れておったんではです。もうその熱を、信心の熱を、漏らしておるというても、それはさほどな事はないです。障子を破っちゃならん、破ったら、すぐ張れ。そこからです、例えていうなら、その風がもれる、そのあったかいものが漏れるだけなら良いけれどもです。そこから魔風が入ってくると神様は仰いますよ。ただ、自分がおかげを受けられんだけなら良いけれども。
 おかげがそこから、漏れるだけなら良いけれども、そこから魔風が入ってくる。いうなら、眠り風が入ってくる。はぁ信心ちゃ厳しいな、信心とは、そんなに隙を作られん事だ、はぁ難しかと、という風に思いがちですけども、決してそうじゃありません。例えば割れた硝子があるならば、直ぐそこを硝子を入れかえるだけの事。障子が破れたら、すぐそこを丹念に張らして頂くだけの事。
 同じ事、日常生活の上においては。あら、おかしいな、これだけ信心さしてもらいよるのに、どうも有難くなれない、おかしいぞと、気が付いたらです。ほら、どっか破れてでもおらんじゃろうかと思うて、自分の心の中を覗いてみなければいけんのです。なるほどここから、こげな大きな穴が開いとるもんじゃから、漏れるはずだと。ここんところをです、私は大事にしていかなければならんと思う。
 そこんところを大事にしていくという事は難しい事じゃないです。けれども、あんまり、それこそあっちこっちが破れておりますとですね。もうその事すらが分からなくなってしまうです。信心しておって有難くもなれない、おかげも受けられないのが、もう当たり前、参らにゃ気色の悪かけん参りよるといった様な事になり果ててしまうです。信心が。何事にも信心になれよという事は難しい事じゃないです。
 これが一番楽なんです、破れりゃすぐ分かる、割れりゃすぐ気が付かせてもらう、はっきりしてるから。これだけストーブ炊いとるのにどうして暖もらんだろうかと。なるほど此処に硝子が一枚割れとるから、暖まらんはずだという事が分かる。同じ事ですよ。そこでです、例えば金光様の、又は、甘木の初代辺りの、ああいう大徳を受けられた金光様の先生方の事を、いかに詳しゅう知っておったって何にもならん。
 その信心を少しでも自分のものにさせて頂きたいというのがです。そういう例えば大徳受けられた方達は、そういうような日常生活がおあり方であったではなかろうかと思います。自分の心の破れというものを、絶えず修繕、繕わせていたんだろうとこう思います。それが出来るという様な事は、どういう様な事だろうかと。これは徳を受けられた方達の、もう誰でもが、必ず、ここだけは同じだと思う事がございます。
 三代金光様のお言葉に、神信心には、しんぼうする事が一番大切でございますとおっしゃる。これなんです。神信心には、もうしんぼうする事が一番大切でございます。これだけはです、何処の大徳の先生であっても、これだけは行じ抜かれたであろうとこう思います。四神様が久留米の初代に、なぁ石橋さん、信心辛抱さえしておれば物事整わん事ないぞと、教えられた。
 もうこれだけは、四神様の身をもって、そこんところを体験しておられた事であるから、石橋先生にそれ伝えられた。石橋先生は、その事を自分のものにし、その事を信者にも伝えられた。他に難しい事はない。この辛抱をいい加減にする様な事では、場合には、泣く泣くという事もあろうけれども。そこを辛抱し抜かせて頂きよりましたら、有難うて有難うてと必ず開けてくるです。
  信心は気分でするもんじゃありません。信心ばかりは、只今申します様に、はぁ今日だんと思うごたる時のあるけれども、そこを辛抱し抜かせて頂く事が信心なんです。金光様は、そこを一番大切でございますと仰っておられます。ご結界の私は、ここの裏に紙が張ってございます。これには、ここのご結界に奉仕させて頂く者の、これが性根でなからにゃいかんと思うから、本当に簡単な簡単な御教えですけども、これを三代金光様のお言葉として、私は、ここに張らしてもらっとる。
 辛抱するという事の中にはです、さぁ辛抱せんの辛抱せんのと、そこが辛抱のしどころばい、きつかろばってん辛抱しなさい、苦しかろうけれども辛抱しなさい。これだけではいけんと私は思う、そういう辛抱だけでは。私はそういうお徳を受けられた方達はですね。そういう辛抱という事を、何時も私は、神様の声として、どういう風に聞いておられただろうかと。恐らく私は、今日はこう感じた。
 何時も神様が、さぁ大きゅうなれ、大きゅうなれと、神様の囁きを聞かれたのではなかろうかと思います。病院にゃおられん、こうせにゃおられん、目に余る様な事があると、ここに一口云うたらならというような事があろうけれどもです。さぁ辛抱せよ辛抱せよという事は、それをぐっとこらえとくというのではなくてです。さぁ大きゅうなれよ、大きゅうなれよと、さぁここが大海の様な信心ぞと、大きゅうなれよと。そういう風に神の囁きを聞かれたのであろうと私は思いますです。
 ですから、あぁいう偉大な信心が生まれ、偉大なおかげが生まれたのです。大きゅうなられたんです。そこを例えばですね、只、ぐっと辛抱するだけじゃないです。大きゅうならせて頂く、こういう事によって大きゅうならせて頂くのだと。心が豊かに美しゅう大きゅうならせて貰うという事。私共が、誰か真似はできませんけれどもです。そういう意味合いにおいて。
 そこだけはひとつ真似させて頂こう。自分のものにさして頂こうという風に、私は思うとります。どの様な場合であっても大きゅうならせて貰おうと。辛抱するだけじゃない、この辛抱しておる事が、これが大きゅうなっていきよる事だと思うたら、辛抱しておる事が美しゅうなっていきよる事だと思うたら、辛抱しておる事がいよいよ自分の心が豊かになっていきよると思うたら、辛抱する事も又、楽しいという事になるのでございます。
   どうぞ。